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『パターン・ランゲージ』刊行記念トークイベントで聞いた「部分と全体」

1月23日に代官山の蔦屋で開催された『パターン・ランゲージ』刊行記念トークイベントに行ってきた。地元のTSUTAYAとは全く違うおしゃれな書店の一角にスクリーンとソファーベンチが並べられ、著者の井庭崇先生と中埜博さんを囲むようにしてお話を聞いた。

僕は小さな会社でソフトウェア開発をしていて、キャリア的に開発チームをリードする立場にある。今までと同じように同じようなものを作る事業がいつまでも続くはずはなく、常に今までより良いやり方はないかと、延々と模索している。

そんな中でお二人の話を聞いたところ、重要な単語、表現、アイデアなどが衝撃となって立て続けに自分を襲い、内容を咀嚼するどころか、ただ呆然と打たれることしかできなかった。マンガでよくある「ガーン!」という表現は、本当にあるんだと実感した。だからまだお二人の話は全然消化できておらず、よってこのエントリもかなり粗いものになりそう。言い訳。

そういうわけで本当にまだよく分かっていないのだが、確か最初に「創造的なコミュニティを作るのは難しい」という話から始まった。一人ひとりの個性を活かしながら、全員が協調して一つのものを創りあげるようなコミュニティはどうしたらできるのか。個性と協調という、一見相反するような要件をどうやって満たすのか。そこには目指すヴィジョンについて語り合うための言語が必要である。つまり、共通の語彙や価値観である。パターン・ランゲージはそういう場面で利用できる「創造の言語」だということだった。

言語といっても日本語のような自然言語ではなく、パターン、つまりよく見られる状況と解決策の集合である。一つのパターンは名前、コンテキスト、問題、解決方法などから成っている。ではなぜその集合をパターン・ランゲージと呼ぶかというと、パターン一つひとつが単語であったり、文法であったりするからだ。単語を組み合わせて文章を作り、文章を繋げて一つの物語を作るように、パターンを組み合わせることで新しいヴィジョンを作ることができる。

井庭先生がそんなパターン・ランゲージの基礎を説明してくださった後、中埜さんが「部分と全体」の話を始めて、それは本当に印象深かった。「部分と全体」は理解するのも説明するのも難しく、パターン・ランゲージの生みの親であるクリストファー・アレグザンダーも自署の中でこの話に多くのページを割いている。

我々が作りたいものや実現したいことは、多くの要素を含んでいる。例えば「売上◯億」という単純な数字でさえ、それを実現するとき、その実現を支えるものの数は一つではない。分かりやすく「要素」と言ったが、要素は「部分」とは限らない。「部分」は、ある視点で「全体」を分けたもの、と言えるかもしれない。例えば輪郭という視点で見ると、輪郭の内側と外側が別の部分になり得る。視点は様々ある。よって一つの「全体」には様々な「部分」が含まれており、それらが重なりあうところも多い。

しかし、一つ重要なのは、その「部分」が無ければ「全体」はなく、「全体」がなければ「部分」もないということである(たぶん)。わかりやすくするため、あえて卑近な例を出してみる。好きな料理を思い浮かべてみて欲しい。何でできているだろうか。その材料の一つが、似たような別のもので置き換えられたら、元のものと同じようにあなたを楽しませ、満足させることができるだろうか?別に粗悪なもので置き換える必要はない。同じような価値のものでも、合う、合わないという傾向があるはずだ。おそらくその材料は、別の料理ではきっと欠かすことのできない重要な部分なのだ。つまり、材料が換わることで全体がその質を失うだけでなく、料理次第で材料もその価値が変わることになる。これは「部分」が無ければ「全体」がなく、「全体」がなければ「部分」もない例ではないだろうか?

自然界にあるものは、「部分と全体」を自ら知っているものが多いらしい。例えば、生物は一つの卵細胞が分裂しながら様々な細胞に変化し、「全体」である個体を生み出す。その一瞬一瞬において、全体は「全体」であり、部分は「部分」であり続ける。足の方の細胞が脳みそになることはない。木の種も同じ。種から大きな葉っぱを一枚出して終わり、ということはない。成長の過程に合わせて適切な根と芽を伸ばす。その原則は再生においてさえ維持される。皮膚を失えば皮膚が補われ、根を切れば新しい根が伸びる。

この世の全てのものは「部分」であり、「全体」でありうる。街もコミュニティも人も、全体であると同時に、何らかの部分でありうる。自分の生活が「全体」だとすると、その「部分」にはどんなものがあるだろうか。コミュニティのヴィジョンがあったとき、それはどんな「部分」から成るだろう。自分の仕事は、何らかの「部分」になっているだろうか。個人でもコミュニティでも、「全体」を作ろうとするとき、何が「部分」で何が「部分」でないか、考え、表現する方法があれば捗るはずだ。

パターン・ランゲージによって、ヴィジョンを「部分」にブレイクダウンすることができる。価値のある概念ややり方に名前をつけ、コミュニケーションの中で使うことができる。パターン・ランゲージは固有名詞ではなく普通名詞であり(アレグザンダーの著書のタイトルは「A Pattern Language」である)、分野や案件毎にパターン・ランゲージがあってよい。それどころか、一つの対象に対して複数のパターン・ランゲージがあってもよい。ヴィジョンを実現しようとするコミュニティは、そのためのパターン・ランゲージを作り、パターンを編み上げることで創造を実現できるのである。

その他、パターン・ランゲージはボトムアップであるとか、小説を書くのとパターン・ランゲージを作るのは似ているとか、南紀白浜のまちづくりだとか、興味深い話ばかりだった。参加する前に本は全部読んだが、書かれていないこと、文字だけでは分からないことが殆どだった。文字というメディアの限界なのだろうか。直接話を聞くことは本当に重要だった。このトークイベントで聞いたことは、この先自分の仕事やものの見方に影響を与えると思う。そういう転機をくれたことに、登壇者のお二人には感謝したい。ありがとうございました。

追記: スクリーンに映しだされてた資料が公開されました。

中埜博さんと井庭崇先生のサイン